特別になりたい男と、特別を作りたくない男の攻防
「こころ」と言えば、私と先生とKがキーワードというのは、読んだことのない人でも知っている、いわば常識である。
実は私は読んだことがなかった。
最近ふと手に取ると、普段恋愛ものが絡むと途端に興ざめする自分が没頭する面白さ。
罪悪感で満たされていて、死んでいないから生きているような先生。
でも、「特別を作りたくない」と思いつつも、いつの間にか自分のひっそりとした余生(←先生にとっては既に)にスルリと入り込んできた”私”に、少しずつ心を開いていってしまうのだ。
しかも、かたくなな鉄壁かと思いきや、割とあっさり”私”を受け入れている。
案外すぐに絆されるところが”先生”の甘さであり、実は情に熱い人だったことを示しているように思える。
一般的によく知られているように、先生は遂に、”私”へ遺書を書き残し、自死してしまう。
自死は決定事項であり、”私”と出会うまでは”先生”はその決定事項までの暇つぶしに誰も踏み入れさせないような生き方をしていた。
この遺書が膨大な長さであり、既に”先生”にとって”私”が、ひょっこり思いがけず入ってきて、いつの間にか特別な人になっていたことが分かる。
先生は、”私”にだけは全てを告白したくなってしまったのだ。
自分の苦しみを悉く知って欲しい、でも否定はされたくない。
その怯えから、遺書という形を取っている。
先生の、何と繊細な事。
対して”私”は、先生にどういった感情を持っていたのだろう。
分厚い遺書を読んで、どう思ったのだろう。
ここでいったん”私”について勝手に妄想してみる。
”私”は田舎の3人兄弟の末っ子、この時代に東京に出て大学生という身分で、両親からも自慢の息子として可愛がられていた様子がうかがえる。
一人称で語られていくので、”私”の外見は分からない。
ここからは本当に妄想になるが恐らく、人好きのする顔立ちだっただろう。
自分が笑いかければ人は笑い返してくれる、自分が尋ねれば人は喜んで教えてくれる、そういったポジションの子として、成長していったのだと思う。
”私”が先生の特別になろうと少々執着じみた言動を繰り返すのは、薄い反応をされたのが初めてだったからではないか。
”先生がかたく閉ざして明かさないもの”が秘密だからこそ、しかも先生がそのうちチラチラと見せるような言葉を発し出すからこそ、ますます自分こそが絶対に知るべきだという使命感のようなものにとらわれたのではないかと思う。
けっして鼻につくタイプではない。
しかし無意識の傲慢というか、そういったポジションの人特有のコミュ強というか、そういったものを感じる。
そして、”先生”のかたくなに隠している秘密は、何かとても壮大で、深くて、一種の官能的というか、不明だからこその夢を見ている。
それは身勝手である。
だからこそ、”先生”は怯え、絶対に否定されないタイミングで吐いたのだ。
と、ここまでが3部構成「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」のうちの「 先生と私 」のみを読んだ感想である。
上記を書いてから一気に残りの2部を読み、思った。
…どうしようもないな。
まず第一に、遺書が長過ぎる。
これは”先生”の吐露なのは間違いないのだが、多分に主観が入っており、これを丸のまま真実とは言えないだろう。
もっと言えば、物語的でもあり(実際、そうなのだから仕方ない部分もあるが)、自己陶酔も感じられる。
もちろん、無意識なのだろうが。
”先生”は大変に甘い。最後の最期まで。
それにゾワリとしてしまう。
叔父に裏切られ人間不信に陥った割には、苦境に立たされていそうでそうではないから、全く自己分析が出来ていない。
もし、”先生”が自分のことを見つめ直し、今後どうするかを真剣かつ具体的に考えたなら、失態は免れていたであろう。
”先生”は、実はとても普通の器を持つ人なのだ。
しかしそれを自覚していないためにグズグズし、機を逃す。
そのグズグズは熟考では決してなく、全てが自分が損をしない・傷つかないためのウダウダである。
正直、イライラする。
言い換えれば、ごくごく普通の器を持った人間が、自分の器以上の善行を行おうと張り切ったために起きた悲劇なのに。
そして、「こうしたらこうなる」という予測を立てられなかった甘さ、下宿をさせてもらっている身なのに下宿先の奥さんのいう事を聞かずヒーローぶって我を通す頑固さ、潔癖ぶって男女間の事を自分の問題として考えなかったのに、アッサリとごくごくありふれた感情・嫉妬に囚われ焦る姿。
”先生”はお育ちゆえか、無意識に求めすぎかつ、自分のことを高く見積もりすぎなのである。
そして、滑稽なほどに女性のことを全く分かっていない。
夫に先立たれ、年頃の娘と暮らしているしっかり者の未亡人が、下宿を許した時点で既に「娘のための見分」は終了している。
母娘で連れ立つ時の会話のネタは、まぁ確実に”先生とK”の事だっただろうと私は予測する。
明るく美人な娘には、それ相当の良人を、と未亡人は思っていただろう。
つまり先生は、最初から未亡人のお眼鏡には適っていたのである。
と言いつつ、うっすらとその事を自覚している風な描写も、たびたび出てくる。
(なら、猶更グズグズすんな!)と思ってしまうのが正直なところだ。
(自分の両親が腸チフスで亡くなっているのだろう?叔父に騙され財産を奪われたのだろう?ならば人生は有限であると身をもって知っているだろう!!!)
それに、未亡人も立場上、「娘をどうかもらってやってください」と自ら言うことは出来ない。
”先生”は、既に自分がお膳立てされる人間ではなくなったことを自覚すべきだった。
Kについては敢えて書かない。
なぜならKは故人であるし、”先生”の遺書が真実100%とは到底思えないからである。
Kに関して真実なのは、”先生”と同郷の同い年の男性であること・生い立ちや実家・Kの遺書に書かれた文言・頸動脈を切って自殺したということのみである。
実のところ、切ない恋を友人に掠め取られたから自殺した、というよりは、色々重なってしまった中、最悪のトリガーがそれであったという印象だった。
”先生”は自分が横取りをした事が原因だと思っているが、たった1つの原因ではなく、多々ある要因の1つだったと思える。
しかし、簡単に自殺するものなのだなぁというのが正直な感想だ。
恐らくKも育ちゆえかと思うが、もう少し泥臭く模索することは出来なかったのだろうかと思ってしまう。
ということで、いくら”先生”がKは自分とはこういう点が違って硬派で男らしくて…というようなことを書き連ねていても、読み手の私からすると信用ならない。
「こころ」は先生の異常なほど長い遺書で終わる。
この遺書が届いた時、”私”は実家(田舎)にいた。
”私”の父親が危篤で、もういよいよ危ないという時に、先生からの遺書を見て衝動的に東京行きの列車に飛び込むのだ。
気にかかるのは、親の死に目に会えたのかということである。
正直、”先生の告白”は、さすがに漱石の文だけあって引き込まれるのだが、内容はだいぶ陳腐だ。
恐らく”私”は、なかなか底の見えない美しい小さな湖をひょんなことから見つけ、いつかは「何か、とてもいいもの」を発見出来る予感がして、その神秘的な湖に足しげく通ったのだ。
その「何か、とてもいいもの」は”私”の中で夢の様に膨らんだが、実のところ別に神秘的でも何でもないドロドロした汚いものだった…
となった時に、果たして、親の危篤なのにわざわざほっぽり出すほどの価値があったのか?と思う。
「何だこんな理由でずーっと、ずーっと引っ張られていたのか!」と失望し、「こんな事のために俺は期待させられ振り回され、あまつさえ親の死に目にも会えなかった!!!」という逆恨みにつながったのではないか?
失望した後、父親の死に立ち会えなければ、”私”にとっては踏んだり蹴ったりである。
もちろん、自分の選択した結果ではあるが。
と心配しながら最初から読み返すと、なんと”私”は結構時が経った現在時点-恐らく、当時の”先生”もしくは実父と同年代くらいと予測する-でも尚、懐かしく思い出し”先生”とよんでいるのである。
これには大変驚いた。
若かった自分が、経験不足と無意識の傲慢さによって勝手に”先生”化していた年上の男性…その正体は、特に自分が思い描いていた高尚なものでも神秘的なものでもなかった、実に普通の臆病者だった。
それを思い知った時、”私”は先生に身勝手に失望し、大いに軽蔑しただろうと思ったからである。
なぜだろうと考えた。
結局、”私”も”先生”も、どこか似通っているからなのではないか。
どちらも、他人からの印象は良く、生まれ育ちも良く、もちろん悪人ではない。
(先生に関しては、恐らく愁いを帯びたミステリアスな雰囲気が実に似合う、かつ品の良さもある眉目秀麗な見た目だと推測する)
しかし突き詰めると、身勝手であり、究極自分第一となる人間である。
「本当に大事なもの・こと」の選択を見誤る。
ここで同族嫌悪とならないところが、なかなか面白い。
”私”は時を経ても先生を懐かしく思うが、先生が万感の思いで書いたであろう遺書に出てくる重要人物”K”、彼が重要人物であることを重々承知の上で
「私はその人の記憶を呼び起こすごとに、すぐ『先生』と言いたくなる。~略~よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない」
と書いている。
これは、わざとだと思う。
この文で、”私”の”先生”への優越感というか、ただの懐かしさではない馴れ馴れしさ…多少礼を欠いたとしても、そんなことは問題ないだろうというような、言いようのない感情がかぎ取れるような気がして、何だかすごーく嫌だなぁと思うのだ。
